JW11【神武東征編】EP11 芸北旅情

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 安芸国(あき・のくに:今の広島県西部)に滞在中の狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)一行は、各地に稲作技術教育や灌漑工事をおこなっていた。


 表題
 
 そんな中、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと) (以下、イツセ)の陣所という地を紹介させてもらった。

 広島市安芸区瀬野の生石子神社(ういしごじんじゃ)である。


 生石子神社
 生石子神社1
 生石子神社2
 生石子神社3
 生石子神社4
 生石子神社5
 生石子神社社殿
 
 その時、目の周りに入れ墨をした大久米命(おおくめ・のみこと)が疑問を呈してきた。


 大久米(おおくめ)「この地で、イツセ様は何をしていたのか、『記紀』も伝承も、何も語ってないんすけど、単独行動をしていたことは間違いないっすよね? その目的は何だったんすか?」

 
 ここで、次兄の稲飯命(いなひ・のみこと)と三兄の三毛入野命(みけいりの・のみこと) (以下、ミケ)が解説を始めた。


 稲飯(いなひ)「そこで、この物語では、大胆な推理をしてみたじ。イツセの兄上は、出雲(いずも)の勢力と政治的な交渉をおこなっていたんではないやろか。」


 ミケ「と言うのも、広島県北部、芸北地方(げいほくちほう)に残る伝承に、出雲に協力を要請し、物資を取り寄せたというものがあるんや。」


 サノ「兄上、そんな伝承があるのですか?」


 稲飯(いなひ)「じゃが(そうだ)。それが広島県庄原市(しょうばらし)高町(たかまち)の吉備津神社(きびつじんじゃ)の境内にある今宮神社(いまみやじんじゃ)の伝承やじ。前回、紹介させてもらった『神武天皇聖蹟誌』に、こう書かれちょる。」

 


 <貴重なる関係文書なきため詳細不明なるも、古老の言によれば、広島にご滞在中、当地方まで御巡遊ある中に、出雲方面との関係を生じ、当地にその間、数度御足を止められ御視察あり、物資を出雲方面より御取り寄せ遊ばさる。>

 


 稲飯(いなひ)「この文言を見てみると、“出雲方面との関係を生じ”というのが、出雲との接触ないし交渉をおこなったということやな。」


 ミケ「そして、“物資を出雲方面より御取り寄せ”ということは、出雲が協力を承諾したと受け取れるんや。」


 稲飯(いなひ)「まあ、古老の話による・・・ということやかい(だから)、本当に語り継がれていたのか、この老人の妄想なのかは判然としないところやが・・・。」


 今宮神社全体図
 今宮神社0
 今宮神社1
 今宮神社2
 今宮神社3
 今宮神社4
 今宮神社5
 今宮神社社殿

 大久米(おおくめ)「県北部に伝わる、それ以外の伝承はどうなんすか? 出雲と関わりのある話が残ってるかもしれないっすよね?」


 ミケ「さすがは、大久米! 今回は、そういった視点で見ていきたいと思うんやじ。」

 
ここで、サノの妃、興世姫(おきよひめ)と剣根(つるぎね)の息子、夜麻都俾(やまとべ)(以下、ヤマト)が解説に加わった。


 興世(おきよ)「まず、広島市安佐北区(あさきたく)の亀山にある船山神社(ふなやまじんじゃ)を紹介したいと思いまする。」


 大久米(おおくめ)「確か、この地にも、サノ様の上陸伝承があるんすよね?」


 興世(おきよ)「その通りです。海から遠く離れた船山に停泊したということは、川を遡ったということでしょう。」


 大久米(おおくめ)「なるほど。それで船山という地名なんすね。」


 ヤマト「すぐ傍には、帆待川(ほまちがわ)という川が流れておる。」


 稲飯(いなひ)「それだけじゃないっちゃ。帆待川から東へ
600メートルほどいったところには、太田川(おおたがわ)の支流である根の谷川(ねのたにがわ)も流れておる。」


 大久米(おおくめ)「どちらかの川を遡って、船山に来たってことか・・・。」


 船山神社0
 船山神社1
 船山神社2
 船山神社3
 船山神社4
 船山神社5
 船山神社6
 船山神社と川

 ミケ「我(われ)は帆待川を通って船山に向かい、そこで一泊したあと、根の谷川に向かったと思っちょる。」


 ミケ論

 大久米(おおくめ)「なんで、そう思うんすか?」


 ミケ「根の谷川を遡っていくと、広島県安芸高田市(あきたかたし)に辿り着くんや。」


 根の谷川

 大久米(おおくめ)「その安芸高田市が、出雲と関係あるんすか?」


 ミケ「実は、安芸高田市の八千代町上根(やちよちょうかみね)は、かつて『根村(ねむら)』と呼ばれておって、素戔嗚尊(すさのお・のみこと)が住んだ『根の国』と伝えられてきた土地なんやじ。」


 根村1
 根村2
 根村3

 大久米(おおくめ)「えっ!? あの素戔嗚尊っすか?!」


 興世(おきよ)「ちなみに、素戔嗚尊(すさのお・のみこと)とは、出雲にて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した伝説で有名な神様のことにござりまする。」


 大久米(おおくめ)「補足説明、かたじけないっす。」


 ヤマト「では、出雲の君主、伊佐我(いさが)殿も、安芸高田市の上根に住んでいたということにござりまするか?」


 ミケ「そこまでは断定できんが、安芸高田市に流れる可愛川(えのかわ)の上流には、八岐大蛇伝説もあるかい(から)、芸北地方が出雲の勢力圏だった可能性は高いんやないかと・・・。」


 大久米(おおくめ)「ちょっと待ってください。八岐大蛇伝説は、出雲の宍道湖(しんじこ)に注ぐ、斐伊川(ひいがわ)上流のことっすよ。」


 斐伊川

 ミケ「それが通説やが、『日本書紀』の別の説には、安芸国(あき・のくに)の可愛川(えのかわ)上流という記載もあるんや。」


 斐伊川と可愛川

 稲飯(いなひ)「じゃが(そうだ)。書記編纂当時から、否定できない説の一つとして存在しちょるんやじ。上根から北へ
5キロほど山中に踏み入れば、可愛川上流に行きつくしな・・・。」


 根村から可愛川

 大久米(おおくめ)「し・・・知らなかった。」


 興世(おきよ)「ちなみに、可愛川は、やがて日本海に注ぐ『江(ごう)の川』となりまする。」


 江の川

 ヤマト「補足説明、痛み入りまする。」


 大久米(おおくめ)「でも、ちょっと無理が有るんじゃないんすかね。」


 ヤマト「それはどういうことじゃ?」


 大久米(おおくめ)「可愛川の八岐大蛇伝説と船山の伝承を結び付けるのは、無理が有るってことっす。」


 ヤマト「確かに、大久米の言う通りじゃ。」


 ミケ「そんなことはないっちゃ。可愛川沿いに位置する、安芸高田市吉田町川本には、埃ノ宮神社(えのみやじんじゃ)があるんやかい(だから)。」


 稲飯(いなひ)「じゃが(そうだ)。この神社こそ、『日本書紀』に書かれた埃宮(え・のみや)であるという由緒を持つ神社っちゃ。」


 埃ノ宮神社1
 埃ノ宮神社2
 埃ノ宮神社3
 埃ノ宮神社4
 埃ノ宮神社5
 埃ノ宮神社鳥居
 埃ノ宮神社拝殿

 興世(おきよ)「サノ様の行宮(あんぐう:仮の御所)ですね。」


 大久米(おおくめ)「なるほど。それらのことを考えると、先述の船山の伝承は、可愛川上流を目指す途上で立ち寄った土地ってことになるのか。」


 ミケ「じゃが(そうだ)。そうに違いないっちゃ。」


 稲飯(いなひ)「埃宮を安芸高田市吉田町川本に設置したのは、出雲と連絡を取るためだったと、作者は考えておる。」


 大久米(おおくめ)「出雲と連絡を取るために、この地までやって来たと?」


 ミケ「じゃが(そうだ)。」


 大久米(おおくめ)「なるほど。そして、イツセ様は、交渉を進めるため、事前に動いていたというわけか・・・。」


 ミケ「そう考えちょる。そのために生石子神社(ういしごじんじゃ)に陣所を置き、独自に動いていたんやないかと・・・。」


 EP11全体図

 するとそこに、怪しい男が唐突に現れた。


 怪しい男「いい線いっちょると思うぞ。」


 稲飯(いなひ)「だ・・・誰や?! 汝(いまし)は誰や?!」


 怪しい男「わしか? わしが、出雲の君(きみ)、伊佐我(いさが)じゃ。」


 突然の出雲の君主登場に、サノが驚きながら、声をかけた。


 サノ「こ・・・これは、伊佐我殿。お初にお目にかかりまする。サノにござる。」


 伊佐我(いさが)「貴殿がサノ殿か。新しき国造りに励んでおるとか?」


 サノ「さ・・・左様。されど、まさか、御貴殿が、ここまで足を運ばれるとは・・・。」


 伊佐我(いさが)「待ちきれず、来てしまったぞ。まあ『記紀』にも登場せんし、ここで現れても問題ないだらあ(だろう)?」


 サノ「問題は有りませぬが・・・。」


 大久米(おおくめ)「じゃあ、伊佐我様! ついでに解説も御願いします!」


 サノ「なっ!? 何を言っておるのじゃ、大久米! この方は、一国の君主じゃぞ!」


 伊佐我(いさが)「まあ、良いではないか。ちょっこし(少し)退屈しておったところだ。」


 サノ「で・・・では、よろしいのですか?」


 伊佐我(いさが)「ええぞ。」


 ミケ「では、芸北地方についての説明を御願いするっちゃ。」


 伊佐我(いさが)「うむ。語ろうぞ。」


 こうして、出雲の君主を迎え、解説は更に盛り上がるのであった。

 つづく

JW10【神武東征編】EP10 安芸探訪

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狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)たち天孫一行は、安芸国(あき・のくに:今の広島県西部)に到着した。

 表題

 「古事記」においては、七年も滞在したと記録されており、これは水稲耕作(すいとうこうさく)の伝播と灌漑工事のためだと考えられる。


 サノ「じゃが(そうだ)。陸稲(りくとう)から水稲に換えるよう指導したのじゃ。」

 
 ここで、三兄の三毛入野命(みけいりの・のみこと) (以下、ミケ)と、博学の天種子命(あまのたね・のみこと)が解説を始めた。


 ミケ「そんなわけで、今回は、技術伝播に基づく視察事業について触れたいと思うっちゃ。」


 天種子(あまのたね)「我々は、安芸国の各地を巡りながら、水稲耕作の方法を教え、灌漑工事を進めていったんや。」


 ミケ「県内最大の穀倉地帯である、東広島市の西条地区に、我々が立ち寄ったという伝承が残っているじ。」


 西条
 西条2

 天種子(あまのたね)「宮島(みやじま)にも訪れているようで、島の南端に位置する須屋浦(すやうら)に上陸し、しばらく滞在したとの伝承もあらしゃいます。」


 宮島1
 宮島2
 宮島3
 
 ここで、サノの側室、興世姫(おきよひめ)も解説に加わった。


 興世(おきよ)「厳島神社(いつくしまじんじゃ)も、サノ様の時代に鎮座したとされているので、このときに、祀られたものかもしれませんね。」


 厳島神社1
 厳島神社2
 厳島神社鳥居

 サノ「実際、島内の山腹には、巨石を用いた祭祀の痕跡も有り、古代祭祀の面影を残している。もしかすると、我らが祭祀をおこなったのかもしれぬぞ。」


 興世(おきよ)「断言なさらないのですね? もしかして、ロマンを大事にするためですか?」


 サノ「じゃが(そうだ)。ロマンを奪ってはならぬ。」


 ミケ「ちなみに、これらの情報は、
1940年(昭和15)の皇紀2600年記念事業の一環で神武天皇聖蹟調査がおこなわれ、広島県が発行したものによるじ。その名も『神武天皇聖蹟誌』っちゃ。」


 サノ「兄上、たくさんの聖蹟地があったようですな。」


 ミケ「じゃが(そうだ)。上陸地点すら、何か所もあったぞ。」


 興世(おきよ)「まずは、廿日市市(はつかいちし)から見てみましょう。前回紹介した、地御前神社(じごぜんじんじゃ)ですが、何年目のことかは分かりませぬが、
617日に、厳島神社の管弦祭(かんげんさい)、すなわち音楽祭の際、高波が起きたため、この地に船を係留したとも伝わっておりまする。」


 地御前
 地御前神社1
 地御前神社2
 地御前神社3

 ミケ「それだけではないっちゃ。同市の串戸(くしど)にある広田神社(ひろたじんじゃ)には、サノが戸を開き、玉串(たまぐし)を奉ったことにより、串戸と名付けられたという伝承があるじ。」


 広田神社1
 広田神社2
 広田神社3
 広田神社4
 広田神社拝殿

 天種子(あまのたね)「ちなみに、玉串とは、木綿(ゆう)や紙垂(しで)という紙製の飾りをつけた榊(さかき)の枝のことにあらしゃいます。」


 玉串

 興世(おきよ)「宮内(みやうち)という地域には、宮内天王社(くないてんのうしゃ)という神社がありまする。この地は、御手洗川(みたらいがわ)に沿って遡上してきた我々が上陸し、宮を作った故事から、宮内と呼ばれるようになったそうですよ。」


 宮内天王社1
 宮内天王社2
 宮内天王社3
 宮内天王社拝殿

 サノ「次は広島市を見てみようぞ。」


 興世(おきよ)「広島市井口(いのくち)の井口大歳神社(いのくちおおとしじんじゃ)も上陸地点の一つで、この神社の前に船をつなぎ泊めたそうですよ。」


 井口大歳神社1
 井口大歳神社2
 井口大歳神社3
 井口大歳神社4
 井口大歳神社拝殿

 ミケ「同市西区田方(たかた)の草津八幡宮(くさつはちまんぐう)も、近くまで入り江があったと伝わり、西側には行宮(あんぐう:仮の御所)もあったそうやじ。」


 草津八幡宮1
 草津八幡宮2
 草津八幡宮3
 草津八幡宮拝殿

 天種子(あまのたね)「同区古江東町(ふるえひがしまち)の新宮神社(しんぐうじんじゃ)にも上陸伝説がありまする。」


 新宮神社1
 新宮神社2
 新宮神社3
 新宮神社拝殿

 ミケ「江田島(えたじま)などにも足を延ばしているようなので、その時々の上陸地点に社が建てられたのかもしれぬな。」


 サノ「兄上、江田島については次回ですか?」


 ミケ「今回で全てを紹介するのは難しいであろう。次回になるやろうな。」


 サノ「承知致しました。」


 江田島

 ここで、筋肉隆々の日臣命(ひのおみ・のみこと)と椎根津彦(しいねつひこ) (以下、シイネツ)も解説に参加した。


 日臣(ひのおみ)「ただ立ち寄っただけ・・・という地点もあるっちゃ。」


 シイネツ「広島市佐伯区の五日市町石内(いつかいちちょういしうち)の臼山八幡神社(うすやまはちまんじんじゃ)やに。」


 臼山八幡神社1
 臼山八幡神社2
 臼山八幡神社3
 臼山八幡神社拝殿

 日臣(ひのおみ)「それだけじゃないっちゃ。同市安佐北区亀山の天王神社(てんのうじんじゃ)にも立ち寄ったという伝承が残ってるんやじ。」


 天王神社1
 天王神社2
 天王神社3
 天王神社4
 天王神社拝殿

 ミケ「休憩でもしたのか?」


 シイネツ「まあ、そんな感じでしょうな。」


 天種子(あまのたね)「いろいろ廻り過ぎて、覚えておられぬようですな。」


 サノ「我(われ)は全て覚えておるぞ。」


 天種子(あまのたね)「さすがは我(わ)が君(きみ)にあらしゃいます。」


 日臣(ひのおみ)「さて、解説の続きを致しまするぞ。東広島市にも来訪伝承地があるじ。」


 興世(おきよ)「福富町(ふくとみちょう)上竹仁(かみだけに)の森政神社(もりまさじんじゃ)のことですね。」


 森政神社1
 森政神社2
 森政神社3
 森政神社拝殿

 日臣(ひのおみ)「もうひとつあるっちゃ。西条町(さいじょうちょう)寺家(じげ)の新宮神社(しんぐうじんじゃ)っちゃ。」


 新宮神社寺家1
 新宮神社寺家2
 新宮神社寺家3
 新宮神社寺家4
 新宮神社寺家拝殿

 シイネツ「新宮神社の手水石(ちょうずいし)は、サノ様の腰掛石(こしかけいし)と伝わっているんやに。ちなみに、手水とは、手と口を洗い清めることで、その場所の石として利用されているみたいっちゃ。」


 新宮神社寺家手水石

 ミケ「いろいろ廻っていたのだな。」


 興世(おきよ)「かなりですね。なかなかの量で、調べるのがつらかったと、作者も言っておりましたよ。」


 天種子(あまのたね)「読み方も、難しかったみたいですなぁ。」


 ミケ「地元特有の読み方もあるかい(から)、それは仕方なか。」


 シイネツ「じゃっどん、なして(なぜ)こんなにたくさんの所を廻っておられるのですか?」


 サノ「稲作に適した土地、そうでない土地、つぶさに見て、ここに必要なのは、どれなのか・・・。視察して決めていったのじゃ。」


 シイネツ「なるほど。」


 EP10全体図
 
 ここで、目の周りに入れ墨をした大久米命(おおくめ・のみこと)が質問を投げかけてきた。


 大久米(おおくめ)「我が君! 一つ教えてくれませんか?」


 サノ「何じゃ?」


 大久米(おおくめ)「広島市の市街地と東広島市の中間地点にあたる、広島市安芸区瀬野(せの)というところに、生石子神社(ういしごじんじゃ)というのがあるんすけど・・・。」


 生石子神社

 サノ「ああ、イツセの兄上が陣所を置いていたところか・・・。」


 大久米(おおくめ)「そうっす。瀬野という地名も、彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと)が語源なんだとか・・・。」


 興世(おきよ)「瀬・・・しか合ってないけど・・・。」


 大久米(おおくめ)「そこは別に気にしてないっす。それより、どうしてイツセ様だけの陣所が有るんすか? 単独行動してたってことっすか?」


 ミケ「それについては、次回、説明するっちゃ。ぜってい、見てくれよな!」


 サノ「兄上?」


 大久米(おおくめ)「何で?」


 興世(おきよ)「言いたかっただけでは・・・。」


 そこへ、話題の人物、彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと。以下、イツセ)がやって来た。


 イツセ「サノよ。ただいま帰還したぞ。」


 サノ「兄上! 御足労をお掛け致しまする。首尾の方は如何(いかが)相成りましたか?」


 イツセ「上首尾や。そろそろ、汝(いまし)が動かにゃならんぞ。」


 サノ「ついに来ましたか。」


 大久米(おおくめ)「ちょっと、サノ様! 俺の質問に答えてくれないんすか!」


 サノ「安心致せ。次回、説明するとミケの兄上も申していたであろう。」


 大久米(おおくめ)「そんなぁ!」


 ミケ「大久米よ。安心せい。次回には分かるっちゃ。ぜってい、見てくれよな!」


 興世(おきよ)「ミケ様・・・。絶対、言いたかっただけですよね?」

 
 次回は、広島県北部の芸北地方(げいほくちほう)に残る伝承をもとに、話を進めていきたいと思う。

 つづく

JW9【神武東征編】EP9 安芸の怪煙

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 狭野尊(さの・のみこと。以下、サノ)ら天孫一行は安芸国(あき・のくに)に辿り着いた。

 現在の広島県西部である。

 
 ここで一行は空高く昇る煙を見た。

 怪しい煙
 
 黒い煙が幾筋にも分かれ、空を覆い尽くさんばかりである。

 
 その光景を訝(いぶか)しく眺めながら、一行は、広島湾内に突き出す岬に停泊した。

 松が、うっそうと生い茂る森である。

 森に到着

 そこに、一人の男が現れた。


 謎の男「よう、来(き)んさったのう。」


 サノ「い・・・汝(いまし)は誰ぞ?!」


 謎の男「わしですか? わしが、この地を治める、安芸津彦(あきつひこ)じゃ。」


 サノ「あ・・・安芸津彦?」


 安芸津彦「天孫一行がやって来ると聞き、今か、今かと待っとりました。」

 
 ここで、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと) (以下、イツセ)が代わって尋ねた。


 イツセ「では、安芸津彦殿。汝(いまし)は、我らを歓迎すると?」


 安芸津彦「そがんこと(そんなこと)当たり前じゃあ。たいがたい(慈悲深い)天孫御一行様の来訪を歓迎せんで、どう、せいっちゅうんですかいのう。」


 イツセ「い・・・いやあ、まあ・・・そうやなっ。」


 サノ「ところで、安芸津彦。あの煙は何じゃ?」


 安芸津彦「ああ、あれは御一行を歓迎するために、烽火(のろし)を上げたんじゃ。」


 サノ「歓迎するため? されど、なにゆえ烽火なのじゃ?」


 安芸津彦「そりゃあ、おっけえ(大きい)烽火を見たら、喜んでくれると思うて、作ったんじゃ。ビックリしたじゃろ?」


 サノ「しょ・・・正直に申さば、皆が訝しく思っておった。すまぬ。」


 安芸津彦「なっ!? なんという正直な御心。わしは感服仕りましたぞ。」

 
 皆が戸惑いを隠せぬ中、次兄の稲飯命(いなひ・のみこと)が安芸津彦に尋ねた。


 稲飯(いなひ)「ところで、安芸津彦殿。あの煙はどこから上げとるんや?」


 安芸津彦「よくぞ聞いてくんさった。あれは、二千年後の広島市と言うところの西部にある山から、烽火を上げとるんじゃ。これを記念して、山に火がついとるけぇ、火山(ひやま)と名付けるつもりじゃ。ちなみに、標高
488メートルじゃ。」


 火山1
 火山2
 火山3
 火山4
 火山5

 その後、安芸住民による、天孫御一行様歓迎式典が行われた。


 
 <安藝都彦(あきつひこ)、出迎えて奉饗(ほうきょう)せりとの傳説(でんせつ)あり>

 

 地元の歴史を編纂した「廣島縣史」には、そう記されている。

 ちなみに、火山(ひやま)であるが、現在、山頂には「神武天皇烽火伝説地」の碑が立っている。


 火山の石碑

 また、湾内に突き出た岬の森は誰曽廼森(たれそのもり)と呼ばれるようになった。

 サノが上陸した際、土地の者に「汝は誰ぞ?」と訊ねた伝承によるものである。

 
 たれその森1

 その森の、すぐ傍に、サノたち天孫一行は行宮(あんぐう。仮の御所)を建てた。

 これが、現在の広島県府中町にある、多家神社(たけじんじゃ)である。

 「古事記」に記された多祁理宮(たけり・のみや)の跡地であるとの伝承が残る。


 多家神社1
 多家神社2
 多家神社3
 多家神社4
 多家神社拝殿
 多家神社
 
 ここで、五十手美(いそてみ) (以下、イソ)と味日命(うましひ・のみこと)が解説を始めた。


 イソ「さきほど『古事記』に記されたと表現されておったが、それには理由がある。なんと『日本書紀』では宮の名前が違うのじゃ『書記』の方は、埃宮(え・のみや)といい、同一の宮を指すのか、それとも違うのか、今となっては、よく分からぬ。」


 味日(うましひ)「多家神社(たけじんじゃ)では、同一の宮として扱っているみたいっちゃ。じゃっどん、埃宮(え・のみや)の跡地といわれる、別の神社も有り、諸説紛々という状況やじ。埃宮伝承地については、後日、お伝えするっちゃ。」

 
 もう一つ、「古事記」と「日本書紀」で異なるところがある。

 
 滞在期間である。

 
 「古事記」では七年、「日本書紀」では二か月余りと、大きく違うのである。

 この理由も定かではないが、七年という期間があれば、稲作の方法を教え、灌漑技術を整えることも可能であろう。


 水稲耕作が、九州から本州へと広がっていったことは、考古学的にも証明されている。

 誰かが伝えたことは間違いのない事実なのである。

 各地に伝わるサノの伝承は、技術が伝播された際の出来事が、初代天皇と結び付いたものなのかもしれない。


 安芸津彦「勝手にまとめるなっ! まだ上陸地点の紹介が済んでないじゃろう!」


 サノ「誰曽廼森(たれそのもり)に上陸したと、先ほど説明があったであろう?」


 安芸津彦「実は、他にも地御前に上陸したという伝承もあるんですわ。」


 稲飯(いなひ)「他にもあるんか?!」


 安芸津彦「そうなんです。こっちの伝承では、わしは廿日市市(はつかいちし)の地御前(じごぜん)に上陸した天孫御一行を倉重(くらしげ)でお迎えしたことになっとるんです。地御前神社(じごぜんじんじゃ)の神社西側の入り江を有府水門(ありふのみなと)と言い、ここから上陸したという伝承があるですわ。その後、サノ様が火山に登られ、烽火を挙げとります。」


 地御前と倉重
 地御前と倉重2
 地御前
 地御前神社1
 地御前神社2
 地御前神社3
 地御前神社拝殿
 倉重

 サノ「烽火を挙げたのは、我(われ)だったという話か・・・。」


 安芸津彦「ほうです(そうです)。それが終わった後、休山(やすみやま)で休まれて、下山されました。そして、山本の出口から船に乗られ、祇園の帆立で帆を張って進まれて、対岸の戸坂(へさか)に上陸されたんです。そこから中山峠を越えて、森に入ったみたいですな。」


 火山から帆立
 帆立から戸坂
 戸坂から多家神社
 火山伝説

 サノ「どのルートでも問題はない。大事なのは、安芸国に入ったことぞ。」


 稲飯(いなひ)「じゃが(そうだ)。それより、安芸津彦自身の紹介も必要なのではないか?」


 イソ「そうですな。では、安芸津彦殿、自己紹介を頼みまする。」


 安芸津彦「わしが安芸津彦(あきつひこ)じゃ。安芸国造(あき・のくに・のみやつこ)の祖と言われとる。国造(くにのみやつこ)っちゅうのは、前回、紹介した通り、地方長官みたいなやつじゃな。それと、正式に国造に就任したんわ、わしの五世孫(玄孫:やしゃご)にあたる飽速玉命(あきはやたま・のみこと)じゃ。」

 
 力説する安芸津彦に大久米命(おおくめ・のみこと)が合いの手を入れる。


 大久米(おおくめ)「第十三代目の成務天皇(せいむてんのう)の時代っすね。」


 安芸津彦「ほうじゃ(そうだよ)。それと、わしは『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』では、天湯津彦命(あまのゆつひこ・のみこと)として登場しとるんじゃ。」

 
 続いて、三兄の三毛入野命(みけいりの・のみこと) (以下、ミケ)が合いの手を入れる。


 ミケ「中つ国に降臨なされた、饒速日(にぎはやひ)殿を中心に書かれた書物のことっちゃね。」


 サノ「で・・・では、汝(いまし)はニギハヤヒ殿を知っておるのか?」


 安芸津彦「知っとるも何も、一緒に降臨した仲じゃけぇ。」

 
 安芸津彦の告白を聞いて、天種子命(あまのたね・のみこと)が過敏に反応した。


 天種子(あまのたね)「えっ!? ほんまか? では、我(われ)のじいちゃんも知っておるのか?」


 安芸津彦「こやねっちゃん(天児屋根命〔あまのこやね・のみこと〕)のことは、よう知っとるよ。」


 天種子(あまのたね)「わ・・・我のじいちゃんを、こやねっちゃ・・・。」


 稲飯(いなひ)「天種子のじいちゃんは、ニギハヤヒ殿と一緒に降臨して、また天に戻って、我(われ)のひいじいちゃんと、改めて降臨してるんやったな。」


 天種子(あまのたね)「また天に戻ってるんが、よく分からんのやけど・・・。」


 サノ「まあ、良いではないか。それより、安芸津彦よ。他に、解説せねばならぬことはあるか?」


 安芸津彦「そうですのう。わしは阿尺国造(あさか・のくに・のみやつこ)、信夫国造(しのぶ・のくに・のみやつこ)、伊久国造(いく・のくに・のみやつこ)などの祖でもありますな。」


 大久米(おおくめ)「阿尺(あさか)は福島県郡山市周辺、信夫(しのぶ)は福島県福島市周辺、伊久(いく)は宮城県角田市(かくだし)周辺のことっすね?」


 安芸津彦「よう勉強しとるのう。そうじゃ。」


 三つの
 三つの国造

 イソ「広島から遠く離れし、東北地方の国造の祖ともなっているのをみると、安芸津彦殿の一族は、大和朝廷内でも信任の厚い一族だったのでしょうな。」


 安芸津彦「褒めても何も出んぞ。」


 ミケ「それだけじゃないっちゃ。安芸国府の在庁官人(ざいちょうかんじん)で、平安時代には、厳島神社(いつくしまじんじゃ)の祭祀を司り、勅使代(ちょくしだい)も務めてきた田所家(たどころ・け)も、安芸津彦の子孫であると伝わってるんやじ。」


 厳島神社1
 厳島神社2
 厳島神社鳥居

 サノ「兄上。在庁官人とは?」


 味日(うましひ)「それについては、俺が説明するっちゃ。在庁官人というのは、地元の有力者が、地方官を務めるということやじ。勅使代っちゅうのは、天皇の使者の代行役ということっちゃ。イソ殿が申していた通り、信任の厚い一族やったんでしょうね。」


 安芸津彦「褒めても何も出んぞ。」


 サノ「されど、それだけ忠誠心の厚い男であったというのは間違いなかろうな。」


 安芸津彦「なんと・・・。お褒めの言葉をいただき、真に嬉しい限りにござりまする。」


 味日(うましひ)「さっきまでと全然違うっちゃ!」


 サノ「それよりも、まずは水稲耕作教室と灌漑公共工事じゃ。いろいろ視察もせねばな。」


 イソ「安芸国の各地を巡るのですね?」


 サノ「じゃが(そうだ)。稲作に適した地、そうでない地、いろいろと見定めねばなるまい。」


 イツセ「そのためには、安芸津彦殿に先導を御願いせねばならぬな。」


 安芸津彦「この地は、我が庭のようなもの。お任せくだされ!」


 サノ「うむ。頼んだぞ。」

 
 こうして安芸国振興作戦が開始されたのであった。

 つづく

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