JW3【神武東征編】エピソード3 出航、そして・・・

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 八朔(はっさく)(旧暦の81日)の朝早く、子供たちの声が響き渡る。


 子供たち「起きよ。起きよ。」


 時刻は午前四時過ぎ。

 ここは宮崎県(みやざきけん)日向市(ひゅうがし)美々津(みみつ)。

 狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)ら天孫一行が出航したことを祝う「おきよ祭り」が始まったのである。

 子供たちは、短冊飾りのついた笹の葉を手に、各家をたたいて回る。

 おきよ祭り

 
 全ての家を起こし終えると、一か所に集まり「つき入れ団子」を食べる。

 餅とあんこが一緒になった団子である。

 出航が早まったため、あんこを包む暇もなく、急遽ついたことで、このような形になったといわれている。

 
 つきいれ団子

 船も建造し、水夫らに航海訓練も積ませていたサノは、遠見の山から凧(たこ)を上げて風向きを調べ、船出を旧暦
82日と決めた。

 
 ところが、物見番から、潮も風もちょうどいいという報せを受け、急遽(きゅうきょ)、
1日の夜明けに船出したのである。

 ここで、次兄の稲飯命(いなひ・のみこと)が口を挟んできた。


 稲飯(いなひ)「ちょっと待てい。作者よ。台本を読んでおるのか? 我らが船出をしたのは、
105日ぞ。81日とは、どういうことや?」

 
 そんなことを言われても、美々津に残る「おきよ祭り」では、そう語り継がれているのである。

 宮崎市観光協会発行の「宮崎の神話」にも、そう書かれているのである。


 出港は、かなり慌てたものだったようで、前回紹介した、美々津の歴史的町並みを守る会が発行した「神武天皇 お舟出ものがたり」には、下記のような記述がある。



<お腰掛けの岩より立ちなんして 下知しちょんなんした 尊(みこと)の御戎衣(みじゅうい)(軍服のこと)のほこれをみつけた もぞらしいおご(可愛い童女)に、 立っちょりなんしたまま 縫わせなんしたこつから 美々津のことの別名を 立縫いの里というように なりやんしたげながの>

 

 要するに、座ってほころびを縫い直す時間もないほど、サノが出発を急いだと書かれている。

 実際、港の南部には、立縫(たちぬい)という地名も残っている。

 

 さて、船の建造から出航までの間、サノ一行がどこにいたのか・・・それについても説明しておこう。

 同町の八坂神社(やさかじんじゃ)が行宮(あんぐう:仮の宮殿)であったと伝わっている。

 

 その後、前回紹介した立磐神社(たていわじんじゃ)と湊柱神社(みなとはしらじんじゃ)にて、出航前の禊(みそぎ)をおこない、身を清めたのであった。

 美々津の神社


 また、立磐神社には、サノが坐っていた御腰掛之石(おこしかけのいし)が境内に保存されている。

 
 御腰掛之磐

 ではなぜ、ここまでサノら天孫一行は急いだのであろうか?

 その答えは、時期にある。

 旧暦
8月は、今でいう9月頃。

 台風の季節なのである。

 そんな時に出航しなくてもと思うのだが、美々津の人々には、それくらい無謀なこととして受け止められ、語り継がれたのであろう。

 ちなみに、美々津は帝国海軍発祥の地といわれている。

 日本海軍発祥の地(看板)
 日本海軍発祥の地(石碑)
 日本海軍発祥の地
 
 一行は、美々津沖の一ツ上(ひとつがみ)と七ツ礁(ななつばん)という、二つの島の間を通って海原に出た。

 波が荒い日向灘に出る直前の穏やかな瀬戸である。

 現在「御船出の瀬戸(おふなでのせと)」と呼ばれている。

 
 地元の漁師の中には、験(げん)を担いで通らない者もいるという。

 一行が、そのまま美々津に帰ってこなかったからである。

 御船出の瀬戸
 
 ここでようやく、本編の主人公、狭野尊が口を開いた。


 サノ「我(われ)は、
105日でも、81日でも、どちらでも良い。それよりも大事なのは、この国を豊かにすることぞ。稲作、鉄器、灌漑技術(かんがいぎじゅつ)を伝えたいのじゃ。」

 
 ちなみに、宮崎市の宮崎神宮(みやざきじんぐう)では、一行の船を復元した「おきよ丸」という船が安置されている。

 宮崎神宮1
 宮崎神宮2
 宮崎神宮前景
 おきよ丸全体
 おきよ丸前景

 西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)から出土した船形埴輪(ふながたはにわ)をモデルに作られたもので、舳先(へさき)などは、美々津の日向市歴史民俗資料館に展示されている。

 
 西都原古墳群1
 西都原古墳群2
 西都原古墳群3
 西都原古墳群
 舟形埴輪
 日向市歴史民俗資料館1
 日向市歴史民俗資料館2
 日向市歴史民俗資料館

 さて、船出した一行であったが、すぐさま事件が起こった。

 河豚(ふぐ)の大軍が、行く手を阻んだのである。

 なぜ行く手を阻んだのか、永遠の謎である。

 とにかく急いでいる一行は、浜の石に鏃(やじり)で祈願文(きがんぶん)を刻み、神に奉納すると、河豚は退散したのであった。

 奉納したところが、鹿嶋神社(かしまじんじゃ)であると伝わっている。

 
 鹿島神社
 鹿嶋神社1

 その後、一行の船旅は順調に進み、一回目の補給をおこなった。

 「居立(いだち)の神(かみ)の井(い)」と呼ばれる地で、今の大分県(おおいたけん)佐伯市(さいきし)米水津(よのうづ)と言われている。

 食料と水を供給したことから付いた地名であろう。

 米水津1
 米水津2
 
 その後、一行は鶴見半島(つるみはんとう)の先端に位置する、鶴御崎(つるみざき)を回り、大入島(おおにゅうじま)に到達した。

 佐伯市の本土側から約
700メートル沖にある島である。

 鶴見半島から大入島
 
 船が停泊したのは、島の先端と伝えられており、その地は、日向泊浦(ひゅうがのとまりうら)と呼ばれている。

 大分県佐伯市は豊後国(ぶんご・のくに)なので、日向(ひゅうが)という呼称は、サノ一行の到着が由来となっているのは明白である。

 日向泊浦
 
 さて、この島で、一つの物語が残っている。

 島に到着した時、一行は食料と水を求めた。

 しかし、島の人たちは、困惑した顔を見せた。


 サノ「如何(いかが)した? 別に差し出せとは言っておらぬ。貝輪(かいわ)と交換しようと言っておるのだ。」

 
 ここで、小柄な家来の剣根(つるぎね)が割って入ってきた。


 剣根(つるぎね)「我(わ)が君(きみ)! 突然、貝輪と言われても分かりますまい。我(われ)から説明致しまするぞ。これは大きな貝で作った腕輪で、まあ、いわゆる装飾品ですな。」


 島の民「貝輪ぐらい知っておりますよ。ただ、わしらは、その貝輪と交換する水がないんです。いや、有ると言えば、有るんですが、それを差し出すと、わしらの飲み水がなくなってしまうんで・・・。食料なら少しくらいは有りますが・・・。」


 サノ「水がない? それはどういうことじゃ?」


 島の民「この島には飲めるような川もなく、井戸水もなく、向こう岸まで渡り、必要な水を取ってくるようなところなんです。」


 サノ「何ということじゃ。そんな地があったとは・・・。」

 
 ここで長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと。以下、イツセ)も会話に加わった。


 イツセ「米水津(よのうづ)の民たちとは、えらい違いっちゃ。まだ高千穂(たかちほ)から、さほど遠くまで来ていないというのに、もうこのような地があるとは・・・。」

 
 そのとき、剣根の弟、五十手美(いそてみ) (以下、イソ)が初登場した。


 イソ「我が君、ここは我(われ)らの出番ですな。」


 サノ「ああ、そうか。我らの灌漑技術があれば、造作(ぞうさ)もないことじゃな。」

 
 それを聞いて、すぐ傍にいた、日臣命(ひのおみ・のみこと)の息子、味日命(うましひ・のみこと)が初登場した。


 味日(うましひ)「よしっ! 急いで作るっちゃ!」


 日臣(ひのおみ)「息子よ。落ち着けっ。我が君の号令を待つんやっ!」


 サノ「島の者たちよ! わずかな食料の感謝のしるしに、我(われ)らが、井戸を掘ろうぞ!」


 島の民「そんなの無理ですよ。我々も頑張ったんです。でも、水は出て来なかった。」


 サノ「諦めてはならぬ。これだけの人数がおれば、深く深く掘り下げることもできるんや。」


 味日(うましひ)「そうやじ(そうだよ)! 諦めるのは早いっちゃ!」

 
 島民の制止(せいし)を振り切り、天孫一行は井戸を掘り始めた。

 そして、あっという間に地下水を発見し、井戸をこしらえたのであった。

 井戸が完成したことに、島の人たちは、心から喜び、天孫一行に感謝した。

 
 あまりにも早かったのか、同島には、このような伝承がある。

 サノが地中深く弓を突き立て「水よ、いでよ。」と祈ると、水が湧きだしたという。

 井戸は「神の井」と呼ばれ、今もこんこんと水をたたえている。

 神の井
 神の井 祠
 神の井 写真
 
 井戸完成の翌朝、まだ暗いうちから、天孫一行は旅立った。

 島の人たちは、感謝の意を表明するため、浜辺で焚火(たきび)をして道標(みちしるべ)とした。

 そして、航海の無事を祈った。

 これが同島に現在も続く、トンド火祭りの起源である。

 
 毎年
1月上旬におこなわれる伝統行事で、「神の井」の傍で起こした火を、たいまつで中学校のグラウンドに運び、竹やシダで作った、高さ15メートルほどのトンドに火をつける。

 普通は、正月飾りを焼き、歳神様(としがみさま)をお送りする祭りだが、この島では、意味合いが異なる。

 サノたちに感謝する祭りなのである。

 とんど火祭り1
 とんど火祭り2
 
 同時に奉納される佐伯神楽(さいきかぐら)では、神の井の水を祭壇に供え、神官がヤマタノオロチに見立てた白い紐を断ち切る舞を披露する。

 このときには、人口
800人の島に、300人以上の観光客が集まる。

 佐伯神楽
 佐伯神楽2
 
 島の人たちの見送りを、サノたちは、どのような想いで眺めていたのであろうか。


 サノ「ああ、あの浜辺の火を見よ。何ヵ所にも火がたかれ、我々が座礁(ざしょう)しないようにしてくれておる。」


 イソ「す・・・すごい。火の道になっておりますぞ!」


 味日(うましひ)「感無量(かんむりょう)やじ!」


 興世(おきよ)「まるで、天(あま)の川(がわ)ですね・・・。」


 稲飯(いなひ)「いいことをするというのは、気分がいいな。」


 イツセ「なあ、サノよ。これからも、このような地に、我々の技術を伝えていかねばな。」


 サノ「左様ですな。場合によっては、何年も留まらねばならぬやもしれませぬな。」

 
 こんなことを言っていたかもしれない。感動に包まれながら、一行を乗せた船は、火のしるべを背にして、次の土地へと向かうのであった。

 つづく

JW2【神武東征編】エピソード2 出航前夜

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 手研耳命(たぎしみみ・のみこと)の説明が終わったところで、狭野尊(さの・みこと) (以下、サノ)は、末席に坐(すわ)る白髪の老人に声をかけた。


 サノ「天道根(あまのみちね)よ。汝(いまし)には、別の命を与えたいと思うておる。」

 
 唐突に声をかけられた天道根命(あまのみちね・のみこと) (以下、ミチネ)が、慌てて返答する。


 ミチネ「何事にござりましょうや?」


 サノ「汝(いまし)が祀(まつ)っている、二つの鏡のことじゃ。」


 ミチネ「
日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)ですな。」

 
 ここで、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと) (以下、イツセ)が尋ねてきた。


 イツセ「
天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸隠れ(いわとがくれ)をなされた折、石凝姥(いしこりどめ)が鋳造(ちゅうぞう)した二つの鏡のことやな?」


 サノ「その通りです。御初代、ニニギ尊が降臨(こうりん)の際に持参してより、ミチネが祀っておりまするが、この鏡も遷座(せんざ)したいと思っておるのです。」


 ミチネ「遷座ですか? 新たな場所を探せと?」


 サノ「そうじゃ。今回の旅路で、良き場所を見つけだせっ!」


 ミチネ「しょ・・・承知致しました。ちなみに、我(われ)は『記紀』には登場致しませぬ。悪(あ)しからず・・・。」


 サノ「分かっておる。そもそも、この会話が『記紀』には記されておらぬ。気にすることはない。」


 ミチネ「では、台本無視の流れで、我が息子も登場させたく存じまするが・・・。」


 サノ「うむ。よかろう。」

 
 ここで、ミチネの息子、比古麻(ひこま)が登場した。


 比古麻(ひこま)「天道根の息子、比古麻にござりまする。身命を賭す覚悟にござりまする。」


 サノ「うむ。親子で、良き地を探し出せ。」

 
 こうして、サノ一行は旅に向けての準備を始めたのであった。


 まずは、旅の成功を祈るため、清水が湧く地に赴いている。
 
 なぜ、この地に赴いたのかというと、祈る前に、身を清めるための禊(みそぎ)をおこなわなければならないからである。

 
 この地は、現在、湯之宮神社(ゆのみやじんじゃ)と呼ばれるところで、宮崎県(みやざきけん)新富町(しんとみちょう)にある神社である。

 ここに、サノが禊をおこなったという、御浴場之跡がある。

 湯之宮神社御浴場跡

 今も、透明度の高い清水が湧いており、近くには、湯風呂(ゆぶろ)という地名も残っている。

 
 湯之宮神社4
 湯之宮神社3
 湯之宮神社2
 湯之宮神社拝殿
 湯之宮神社(湯風呂)

 さて、ここで禊をおこなったサノは、何気なく、そこにあった梅の枝をついた。

 するとどうしたことであろうか。

 立派な梅林ができあがった。

 現在、座論梅(ざろんばい)と呼ばれている梅林が誕生した瞬間である。


 サノ「旅の支度についても『記紀(きき)』には書いていないことを取り上げるのか。」

 
 そのとき、サノの妃の一人、興世姫(おきよひめ)が説明を始めた。


 興世(おきよ)「地元の伝承もちゃんと伝えたいという、作者の考えとのことです。それと、座論梅ですが、もとは
1株でしたが、21世紀現在では、80株に増えているそうです。」


 サノ「それより、なぜ、汝(いまし)がここにおるのか?」


 興世(おきよ)「こっそりついて参りました。一緒にお供させていただきまする。」


 サノ「吾平津媛(あひらつひめ)や岐須美美(きすみみ)は、知っておるのか?」


 興世(おきよ)「皆で語り合って決めました。どうか、お供させてくださりませっ。」


 サノ「ここまで来て、女一人で帰らせるわけにもいかぬな。仕方ない。汝(いまし)を連れて行こうぞ。されど、戦(いくさ)が起こる気配があれば、その限りではない。ついて来ること、罷(まか)りならぬぞ。」


 興世(おきよ)「承知致しました。かたじけのうござりまする。」


 サノ「それで興世よ。なにゆえこれが、座論梅なのか? 坐って議論した記憶はないが・・・。」


 興世(おきよ)「そこですが、江戸時代に佐土原藩(さどわら・はん)と高鍋藩(たかなべ・はん)が、梅林の所有権を巡って争った際に、坐して議論したことから、名付けられたそうです。」

 湯之宮神社1
 湯之宮神社座論梅看板
 湯之宮神社座論梅
  
 こうして、サノら天孫一行は、祈りをおこなうため、海が見える地に移動した。

 この地は、現在の鵜戸神社(うどじんじゃ)といわれている。

 湯之宮神社から約
10キロ離れたところにあり、国土平定を祈願した地として語り継がれている。

 今の宮崎県(みやざきけん)高鍋町(たかなべちょう)にある神社である。

 鵜戸神社5

 鵜戸神社4
 鵜戸神社3
 鵜戸神社2
 鵜戸神社1
 鵜戸神社拝殿

 祈りが終わったあと、サノは海を眺めながら言った。


 サノ「ここは見通しはいいが、入り江がないのか・・・。」

 
 ここで、筋肉隆々の家来、日臣命(ひのおみ・のみこと)が説明を始めた。


 日臣(ひのおみ)「入り江がなく、浅瀬(あさせ)が続く海やかい(だから)、航海には向いちょりませんな。二千年後の表現でいうなら、離岸流(りがんりゅう)が激しいっちゅうことですな。」


 サノ「では、出航の地は、別のところになるのか?」


 日臣(ひのおみ)「そうですな。もう少し北の方に行けば、良かち思うちょります。」


 サノ「よし、では、もう少し北に進もうぞ。それに、船の支度に、矢の支度もせねばな・・・。」


 日臣(ひのおみ)「船はともかく、矢は必要ですか?」


 サノ「時には、弓矢に及ぶこともあるであろう。揃えておいて、損はないはずじゃ。」

 
 現在の宮崎県都農町(つのちょう)に、矢を準備したという伝承を持つ滝がある。

 矢研(やとぎ)の滝である。

 その名の通り、天孫一行が矢を研いで、出航に備えたという。

 日本で唯一、瀑布群(ばくふぐん)が名勝指定されている、尾鈴瀑布群(おすずばくふぐん)の一つで、日本の滝百選にも選ばれている。

 矢研の滝4
 矢研の滝3
 矢研の滝2
 矢研の滝1
 矢研の滝景観 

 
 滝に見とれながら、サノは言った。


 サノ「よいではないか。山深い谷。荘厳な雰囲気。豊富な水量。美しき景観。周りには、矢のもとになる、矢竹もたくさん有る。それに矢じりに適した石もたくさん有る。」

 
 ここで、長兄のイツセが説明を始めた。


 イツセ「この地の石は、熱変成によって硬くなり、鋭く割れるんや。古代から狩猟生活が盛んだったようでな。遺跡が続々と見つかり、多くの石鏃(せきぞく)が出土しておる。」


 サノ「兄上・・・。その、『せきぞく』とは、何でござろうか?」


 イツセ「石製の矢じりということや。都農町は尾鈴山(おすずやま)の東麓の丘陵地帯にある町で、山と海に挟まれた地やじ。食物を得やすい地だったのも、古代から人が定着した理由であろうな。」

 
 この地でも、サノら天孫一行は、国土平安、海上平穏、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈念(きねん)したという。

 それが、現在の都農神社(つのじんじゃ)であると伝わっている。

 矢研の滝で禊をおこなったのであろうか。

 都農神社5

 都農神社4
 都農神社3
 都農神社2
 都農神社1
 都農神社拝殿

 次に着手したのは、船の建造であった。

 サノら天孫一行は、船を作るのに適した地を発見した。

 それは言うまでもなく、良い港が有るという意味でもあった。

 
 宮崎県日向市にある美々津港(みみつこう)がそれであると伝わっている。

 サノら天孫一行が出航したので「御津(みつ)」と呼ばれていたのが、美々津と転訛したのだとか。

 
 美々津4
 美々津3
 美々津2
 美々津1

 美々津は、耳川(みみかわ)の河口に位置し、江戸時代には木材集積場として繁栄。

 千石船(せんごくぶね)が行き交う港であった。

 その当時の名残を留める町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区(じゅうようでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく)に指定されている。

 
 美々津重要伝統的建造部群保存地区

 美々津(みみつ)の歴史的(れきしてき)町並みを守る会が発行している冊子「神武天皇 お舟出ものがたり」において、サノは、こう語っている。



 <港はふけーし 大けな木はようけあり、慣れちょる、でくどん(船大工)や かこ(水夫)が ぎょうさんいるし、 むらんもんどみゃ 人間(ひと)がえーもんばっかりじゃ>


 
 サノ自身が、この台詞についての説明を始めた。


 サノ「港は深いし、というのは、大きい船も入る良港という意味じゃ。大きな木がたくさん有り、船大工や船漕ぎの人もたくさんいる。それに、この村の人たちは、みんな誠実な人たちばかりではないか・・・という意味じゃ。」

 
 ここで、目のまわりに入れ墨をした家来、大久米命(おおくめ・のみこと)が説明を始めた。


 大久米(おおくめ)「美々津のある耳川を少しさかのぼると、広い河原があるんすけど、そこが船を作った場所と伝わってます。現在は、匠ヶ河原(たくみがこら)と呼ばれてますね。この地の木材は、本当に素晴らしく、木炭に至っては、江戸時代に『日向(ひゅうが)美々津(みみつ)の赤樫(あかかし)』とたたえられたそうっす。」


 サノ「あかかし?」


 大久米(おおくめ)「アカガシとも言う常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ)のことっす。堅さが特徴で、船以外の器具にも使われます。農具や車輪、ソリですね。それから木炭。日向木炭は、長く火が保って素晴らしいと、上方商人(かみがたしょうにん)が競って求めたんすよ。」


 サノ「なるほど。我らが出航したあと、様々な人が行き交う港になるのか・・・。それで無事の航海を祈るため、港の傍に神社を建てたのじゃな?」


 大久米(おおくめ)「さすがは我(わ)が君(きみ)! お目が高い! この神社は立磐神社(たていわじんじゃ)っす。後ろにそびえし、柱のような巨石は、海道の神である塩土老翁(しおつちのおじ)を祀った場所だと言われてますよ。」


 サノ「なに? ジイが祀られておるのか?」


 大久米(おおくめ)「はい。ジイは、海道の神で、美々津の民は、海上交通安全を祈願してます。」


 サノ「そうか・・・。では、ジイを連れてくるべきであったな・・・。」

 
 こうして旅の準備は整ったのであった。

 立磐神社2
 立磐神社1
 立磐神社
 立磐

 つづく 

JW1【神武東征編】エピソード1 狭野尊の決意

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今は昔の物語。

 地上世界を治めるため、高天原(たかまのはら)より天孫が降り立った。

 神の名は、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎ・のみこと) (以下、ニニギ尊)。

 降り立った地は、吾田(あた)の長屋の笠狭崎(かささのみさき)という。

 今の宮崎県の高千穂峰(たかちほのみね)といわれている。


 高千穂国全域
 高千穂国中域


 ニニギ尊は、この地を治めることから始めた。

 そしてそれは、子、孫へと受け継がれていった。


 子の名前は、彦火日出見尊(ひこほほでみ・のみこと) (山幸彦(やまさちびこ)とも。)


 孫の名前は、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず・のみこと)


 そして、曾孫の名は狭野尊(さの・のみこと)といった。

 
 狭野尊が治める時代。

 すなわち紀元前
667年。

 高千穂(たかちほ)の地を震撼(しんかん)させる出来事が起きようとしていた・・・。

 


 その年の秋、狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)は小高い丘の上に立ち、黄金色に輝く田を眺めながら、豊作を心から喜んでいた。

 そこへ、塩土老翁(しおつちのおじ) (以下、ジイ)という老人がやって来た。


 ジイ「我(わ)が君(きみ)。御用件とは?」


 サノ「ジイか。我(われ)の考えを聞いてほしい。」


 ジイ「なんでしょう?」


 サノ「この八洲(やしま)の国を豊かにしたいのじゃ。稲作、製鉄、灌漑技術を伝えていきたいのじゃ。」


 ジイ「各地に伝えると申されまするか?」


 サノ「そうじゃ。そして、様々な国と連合し、支え合えば、無用の争いも無くなると思う。」


 ジイ「アメリカ合衆国やソビエト連邦のような連邦制にするわけですな。」


 サノ「読者のための解説、かたじけなし。その二国はまだないが、大陸には周(しゅう)という国家が、様々な国と連合し、政(まつりごと)をおこなっているらしい。その思想が、この国にも及んだと考えても良いと思ってな。」


 ジイ「確かに。稲作も長江から伝わったと遺伝子の研究で判明しておりますから、製鉄や灌漑技術も、季節風に流されてやって来た、大陸の人々の知恵と考えられまするな。」


 サノ「もしかすると、ニニギ尊も、大陸の人だったかもしれぬ。」


 ジイ「そのへんはともかく、技術の伝播で国をまとめようという、お考えは、素晴らしきことと存じます。」


 サノ「八洲(やしま)の国を一つにまとめれば、更に豊かな国になるはずじゃ。ただ・・・。」


 ジイ「ただ、何でしょう?」


 サノ「国の中心となる場所は、どこが良いかと思案しておるのよ。それに、家臣たちから賛同を得られねばならぬしな。」


 ジイ「国の中心となれば、やはり東方ですな。東方へと向かわれませ。その地は青い山に取り巻かれた地にござる。中(なか)つ国(くに)にござる。」


 サノ「その地は、饒速日(にぎはやひ)殿が治めているはず。彼が、それを許してくれるであろうか? なにより、連合政権を作ることに賛同してくれるであろうか?」


 ジイ「饒速日様も、天(あま)の磐舟(いわふね)に乗って降り立った、天孫ですからな。」


 サノ「それよ。我こそが正統なりと訴えられはせぬかと・・・。」


 ジイ「やってみねば分かりますまい。」


 サノ「そうだな。やってみるしかないか。やらずに悩むことほど愚かなことはない。」


 ジイ「それと、台本である『古事記(こじき)』と『日本書紀(にほんしょき)』ですが・・・。」


 サノ「如何致した?」


 ジイ「今後は『記紀(きき)』とまとめようかと思っておりまする。」


 サノ「なるほど。略して『記紀』と呼ぶわけか?」


 ジイ「その通りですぞ!」

 
 こうしてサノは、兄や家来を集めて会議をおこなった。

 集まった場所は、サノの宮である。

 現在の宮崎市にある、皇宮神社(こうぐうじんじゃ)であるといわれている。

 宮崎神宮から東南に約
600メートル離れた、小高い丘にある、神宮の摂社で、地元の人たちは「皇宮屋(こぐや)」と呼んでいる。

 晴れた日には、高千穂峰を望むことができる。

 また、「皇軍発祥の地」という石碑が立っている。

 皇宮神社5
 皇宮神社4
 皇宮神社3
 皇宮神社2
 皇宮神社1
 皇宮神社社殿
 皇宮神社(皇軍発祥の地)
 

 さて、サノの東方に移住したいという提案を聞き、兄たちや家来たちは、とても驚いた。

 まずは、一番上の兄、いつも冷静沈着な、彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと) (以下、イツセ)が意見を述べた。


 イツセ「サノよ。曾祖父、ニニギ尊が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年(
1792470余年)になる。ついに、この日が来たんやな。」

 
 そこに剣根(つるぎね)という、小柄な家来が、食いついてきた。


 剣根(つるぎね)「我らが長きに渡って治めし、先祖伝来の地を捨てろと申されまするか?」


 サノ「捨てるのではない。広げるのじゃ。」

 
 未だ納得のいかぬ表情で、腕を組む剣根。

 その傍らで、サノの次兄、稲飯命(いなひ・のみこと)が賛成を表明するとともに、サノに訓戒を述べた。


 稲飯(いなひ)「良いか、サノ。ニニギ尊はな、まだ明るさも充分でなかった時代に、その暗い中にありながら、正しい道を押し開いていかれた。汝(いまし)がおこなおうとしているのは、それほど困難な道っちゃ。一族や家来たちを茨(いばら)の道に進ませることになるやろう。その覚悟はできておるのか?」


 サノ「その覚悟なくして、どうして、このような大事を皆に語りましょうや。」

 
 決意に満ちた表情のサノに対し、目のまわりに入れ墨をした家来、大久米命(おおくめ・のみこと)が苦言を呈してきた。


 大久米(おおくめ)「豊かな土地を離れ、辺境の土地に行くんすか? 見えざる脅威にさらされ、移動するは必定ですよ。怪しき生き物、恐ろしい化け物、絶対いますよ。どうされるおつもりなんすか? 悪いことは申しませぬ。やめましょう! 我が君!」


 サノ「大久米の申す通り、この高千穂の地は、平和で豊かな地じゃ。されど、他の国々は、村々で境を設け、争ってばかりいる。彼らをまとめ、世を平らかにしたいのじゃ! それには、八洲(やしま)の国の、ほぼ真ん中に位置する、中(なか)つ国(くに)こそ、大業(たいぎょう)を成すべき土地だと思うのじゃ。」

 
 三兄の三毛入野命(みけいりの・のみこと) (以下、ミケ)は満面の笑みで、サノの意見に同調した。


 ミケ「汝(いまし)の思うままにせよ。父上は、汝に託したんや。家来たちが、みな反対したとしても、我ら兄弟だけで行けばよいだけのことっちゃ。」

 
 そこに、博学の家来、天種子命(あまのたね・のみこと)が意見を述べてきた。


 天種子(あまのたね)「殿も、ミケ様も分かっておられまするのか? 東方にあるという、中つ国には、既に天孫(てんそん)が降り立っておられます。饒速日命(にぎはやひ・のみこと)という天孫にあらしゃいます。」


 サノ「知っておる。」


 天種子(あまのたね)「饒速日殿が譲ってくれるとでも?」


 サノ「やってみねば分からぬではないか。」

 
 最後に意見を言ったのは、筋肉隆々の家来、日臣命(ひのおみ・のみこと)であった。


 日臣(ひのおみ)「おいは、我が君に従うっちゃ。おいは、遠い地に行ってみたか。」

 
 そこへサノの妃、吾平津媛(あひらつひめ)を筆頭に、息子の手研耳命(たぎしみみ・のみこと) (以下、タギシ)と娘の岐須美美命(きすみみ・のみこと)、そして側室の興世姫(おきよひめ)がやって来た。

 開口一番、吾平津媛は反対した。


 吾平津(あひらつ)「私はいやですよ! こんな豊かな地を離れるのはいやです!」


 サノ「いきなり何じゃ! 汝(いまし)が何と言おうと、我(われ)は行くぞ!」


 岐須美美(きすみみ)「父上・・・。母上の想いも分かってくださりませ。父上と一緒に赴きたい気持ちを抑え、足手まといにならぬよう、わざと悪態をついて、離縁されようとまで思い詰めておられるのです。」


 吾平津(あひらつ)「岐須美美! 言ってしまったら、意味がないでしょ!」


 サノ「そうか。されど・・・。確かに、オナゴを連れていくのは危ない。吾平津。汝(いまし)は、岐須美美や興世と共に残れ。汝の兄、吾田小橋(あたの・こばし)にも残ってもらい、高千穂の地を治めてもらうつもりじゃ。」


 吾平津(あひらつ)「これも運命なのですね。武運長久を祈っておりまする。」

 
 話の流れで、兄の吾田小橋も意気込みを述べた。


 小橋(こばし)「御安心くだされ。この地は、守り切ってみせましょうぞ。なお、この宮の跡地とされている、皇宮神社では、
114日に皇宮屋破魔矢祭(こぐやはまやまつり)をやっておりまする。」


 サノ「読者のための解説、かたじけなし。」

 
 すると、ここで息子の手研耳命が、突然、しゃべり始めた。


 タギシ「補足説明をしておきましょう。ちなみに、わしも皇宮神社に祀られておりまする。母上も・・・。しかし、なぜか、岐須美美は祀られておりませぬ。」

 
 手研耳命の説明が終わったところで、サノは、末席に坐(すわ)る白髪の老人に声をかけた。


 サノ「天道根(あまのみちね)よ。汝(いまし)には、別の命を与えたいと思うておる。」

 つづく

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