JW10【神武東征編】EP10 安芸探訪
狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)たち天孫一行は、安芸国(あき・のくに:今の広島県西部)に到着した。
「古事記」においては、七年も滞在したと記録されており、これは水稲耕作(すいとうこうさく)の伝播と灌漑工事のためだと考えられる。
サノ「じゃが(そうだ)。陸稲(りくとう)から水稲に換えるよう指導したのじゃ。」
ここで、三兄の三毛入野命(みけいりの・のみこと) (以下、ミケ)と、博学の天種子命(あまのたね・のみこと)が解説を始めた。
ミケ「そんなわけで、今回は、技術伝播に基づく視察事業について触れたいと思うっちゃ。」
天種子(あまのたね)「我々は、安芸国の各地を巡りながら、水稲耕作の方法を教え、灌漑工事を進めていったんや。」
ミケ「県内最大の穀倉地帯である、東広島市の西条地区に、我々が立ち寄ったという伝承が残っているじ。」
天種子(あまのたね)「宮島(みやじま)にも訪れているようで、島の南端に位置する須屋浦(すやうら)に上陸し、しばらく滞在したとの伝承もあらしゃいます。」
興世(おきよ)「厳島神社(いつくしまじんじゃ)も、サノ様の時代に鎮座したとされているので、このときに、祀られたものかもしれませんね。」
サノ「実際、島内の山腹には、巨石を用いた祭祀の痕跡も有り、古代祭祀の面影を残している。もしかすると、我らが祭祀をおこなったのかもしれぬぞ。」
興世(おきよ)「断言なさらないのですね? もしかして、ロマンを大事にするためですか?」
サノ「じゃが(そうだ)。ロマンを奪ってはならぬ。」
ミケ「ちなみに、これらの情報は、1940年(昭和15)の皇紀2600年記念事業の一環で神武天皇聖蹟調査がおこなわれ、広島県が発行したものによるじ。その名も『神武天皇聖蹟誌』っちゃ。」
サノ「兄上、たくさんの聖蹟地があったようですな。」
ミケ「じゃが(そうだ)。上陸地点すら、何か所もあったぞ。」
興世(おきよ)「まずは、廿日市市(はつかいちし)から見てみましょう。前回紹介した、地御前神社(じごぜんじんじゃ)ですが、何年目のことかは分かりませぬが、6月17日に、厳島神社の管弦祭(かんげんさい)、すなわち音楽祭の際、高波が起きたため、この地に船を係留したとも伝わっておりまする。」
ミケ「それだけではないっちゃ。同市の串戸(くしど)にある広田神社(ひろたじんじゃ)には、サノが戸を開き、玉串(たまぐし)を奉ったことにより、串戸と名付けられたという伝承があるじ。」
天種子(あまのたね)「ちなみに、玉串とは、木綿(ゆう)や紙垂(しで)という紙製の飾りをつけた榊(さかき)の枝のことにあらしゃいます。」
興世(おきよ)「宮内(みやうち)という地域には、宮内天王社(くないてんのうしゃ)という神社がありまする。この地は、御手洗川(みたらいがわ)に沿って遡上してきた我々が上陸し、宮を作った故事から、宮内と呼ばれるようになったそうですよ。」
興世(おきよ)「広島市井口(いのくち)の井口大歳神社(いのくちおおとしじんじゃ)も上陸地点の一つで、この神社の前に船をつなぎ泊めたそうですよ。」
ミケ「同市西区田方(たかた)の草津八幡宮(くさつはちまんぐう)も、近くまで入り江があったと伝わり、西側には行宮(あんぐう:仮の御所)もあったそうやじ。」
天種子(あまのたね)「同区古江東町(ふるえひがしまち)の新宮神社(しんぐうじんじゃ)にも上陸伝説がありまする。」
ミケ「江田島(えたじま)などにも足を延ばしているようなので、その時々の上陸地点に社が建てられたのかもしれぬな。」
サノ「兄上、江田島については次回ですか?」
ミケ「今回で全てを紹介するのは難しいであろう。次回になるやろうな。」
サノ「承知致しました。」
ここで、筋肉隆々の日臣命(ひのおみ・のみこと)と椎根津彦(しいねつひこ) (以下、シイネツ)も解説に参加した。
日臣(ひのおみ)「ただ立ち寄っただけ・・・という地点もあるっちゃ。」
シイネツ「広島市佐伯区の五日市町石内(いつかいちちょういしうち)の臼山八幡神社(うすやまはちまんじんじゃ)やに。」
日臣(ひのおみ)「それだけじゃないっちゃ。同市安佐北区亀山の天王神社(てんのうじんじゃ)にも立ち寄ったという伝承が残ってるんやじ。」
シイネツ「まあ、そんな感じでしょうな。」
天種子(あまのたね)「いろいろ廻り過ぎて、覚えておられぬようですな。」
サノ「我(われ)は全て覚えておるぞ。」
天種子(あまのたね)「さすがは我(わ)が君(きみ)にあらしゃいます。」
日臣(ひのおみ)「さて、解説の続きを致しまするぞ。東広島市にも来訪伝承地があるじ。」
興世(おきよ)「福富町(ふくとみちょう)上竹仁(かみだけに)の森政神社(もりまさじんじゃ)のことですね。」
日臣(ひのおみ)「もうひとつあるっちゃ。西条町(さいじょうちょう)寺家(じげ)の新宮神社(しんぐうじんじゃ)っちゃ。」
シイネツ「新宮神社の手水石(ちょうずいし)は、サノ様の腰掛石(こしかけいし)と伝わっているんやに。ちなみに、手水とは、手と口を洗い清めることで、その場所の石として利用されているみたいっちゃ。」
興世(おきよ)「かなりですね。なかなかの量で、調べるのがつらかったと、作者も言っておりましたよ。」
天種子(あまのたね)「読み方も、難しかったみたいですなぁ。」
ミケ「地元特有の読み方もあるかい(から)、それは仕方なか。」
シイネツ「じゃっどん、なして(なぜ)こんなにたくさんの所を廻っておられるのですか?」
サノ「稲作に適した土地、そうでない土地、つぶさに見て、ここに必要なのは、どれなのか・・・。視察して決めていったのじゃ。」
シイネツ「なるほど。」
ここで、目の周りに入れ墨をした大久米命(おおくめ・のみこと)が質問を投げかけてきた。
大久米(おおくめ)「我が君! 一つ教えてくれませんか?」
サノ「何じゃ?」
大久米(おおくめ)「広島市の市街地と東広島市の中間地点にあたる、広島市安芸区瀬野(せの)というところに、生石子神社(ういしごじんじゃ)というのがあるんすけど・・・。」
サノ「ああ、イツセの兄上が陣所を置いていたところか・・・。」
大久米(おおくめ)「そうっす。瀬野という地名も、彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと)が語源なんだとか・・・。」
興世(おきよ)「瀬・・・しか合ってないけど・・・。」
大久米(おおくめ)「そこは別に気にしてないっす。それより、どうしてイツセ様だけの陣所が有るんすか? 単独行動してたってことっすか?」
ミケ「それについては、次回、説明するっちゃ。ぜってい、見てくれよな!」
サノ「兄上?」
大久米(おおくめ)「何で?」
興世(おきよ)「言いたかっただけでは・・・。」
そこへ、話題の人物、彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと。以下、イツセ)がやって来た。
イツセ「サノよ。ただいま帰還したぞ。」
サノ「兄上! 御足労をお掛け致しまする。首尾の方は如何(いかが)相成りましたか?」
イツセ「上首尾や。そろそろ、汝(いまし)が動かにゃならんぞ。」
サノ「ついに来ましたか。」
大久米(おおくめ)「ちょっと、サノ様! 俺の質問に答えてくれないんすか!」
サノ「安心致せ。次回、説明するとミケの兄上も申していたであろう。」
大久米(おおくめ)「そんなぁ!」
ミケ「大久米よ。安心せい。次回には分かるっちゃ。ぜってい、見てくれよな!」
興世(おきよ)「ミケ様・・・。絶対、言いたかっただけですよね?」
次回は、広島県北部の芸北地方(げいほくちほう)に残る伝承をもとに、話を進めていきたいと思う。
つづく
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